西ユーラシア貨幣史研究会/中世ブリテン史研究会・

このブログは、西ユーラシア貨幣史研究会と中世ブリテン史研究会の情報公開および会員の討議の場である。西ユーラシア貨幣史研究会は、前近代のユーラシアにおける貨幣と流通のシステムを解明することを目的とした研究会である。中世ブリテン史研究会は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドに分かれていた研究対象を、ヨーロッパ史の形成過程という視点から、これら諸地域の歴史的構造の再検討を目的として結成された研究会です。

現在のメンバーは

常見信代 北海学園大学人文学部教授 (代表)
鶴島博和 熊本大学教育学部教授
森下園  上智短期大学英文科准教授
梁川洋子 関西大学文学部講師
田付秋子 東京大学研究員


このブログの目的は研究会の足跡と会員ここの業績を記録することにあります。

Llandudoch(St.Dogmaels Abbey)
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    ground planSt.Dogmaels AbbeySt.Dogmaels Abbey St.Dogmaels Abbey

    Llandudochは、Teifi河の河口に、Cardiganの町の対岸(南岸)に位置する。中世初期にはこの地域の母教会(Clas church)であったとされるが、10世紀末にヴァイキングの侵攻を受けて衰退した。さらに、ノルマン征服後の1120年には、ノルマン諸侯Robert FitzMartin,Lord of Cemaisによって、跡地にあるいはそのすぐ近くに、フランスのティロン修道院系の修道院St.Dogmaels Abbeyが建てられた。初代修道院長Fulchardは、1120年にセント・デイヴィッズの最初のノルマン司教であるBernardによって叙階された。現在は、その修道院の廃墟が残っており、古い部分では12世紀のものがみられる。

    隣接する博物館には、修道院跡や近隣から出土した、初期教会時代の石柱がいくつか展示されている。いずれも、修道院や近隣の農場などの建築資材に再利用されていたらしく、傷みが激しい。

    Dogmael(Dogfael,Dogwelとも書く)は、征服後の修道院名に用いられたが、6世紀の、一説には聖デイヴィッドの従兄弟、とされる聖人である。

    (梁川)
    | kanadelib1 | 巡見 | 04:09 | - | - | - | - |
    St Giles at Pipe Aston St Peter's Church at Stanton Lacy
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      時間を巻き戻して8月12日の話しをします.Ludlowに到着してから私たちは、宿のFeathers(この建物については後日お話しします)に車と荷物をおいて、巡見の手順であるInfo.で現地の地図や資料を入手しました。その後、Dr Sally Harvey と夫君のLord Leslie Fiedfingのご自宅に招かれて午後のお茶の時間を楽しみました。雨が少なかったこと。庭の池が干上がって(室内に巨大で立派な書斎とプールがありました)たこと、蝶の少ないことなどとりとめのない話しをしました。しかしブラックベリーはよくなっていました。小振りの酸っぱさが鼻にのこって何ともいえぬ安心感が広がりました。その後、ふたつのアングロ・サクソン教会に彼女の先導で向かいました。最初がStanton Lacyです。イングランドのwales支配の拠点となったLudlowはDomesday BookのStanton Lacy manorから発展してきますが、都市については後日お話ししたいと思います。まずは、三つの教会から。(未完)(鶴島博和)

      St Giles at Pipe Aston


      Salleyの村Pipe Aston(Hertfordshire) 
      にあるSt Giles教会です。Naveの部分はロマネスク(ノルマン様式です)内陣の東の窓は14世紀でしょうか。石材はこのあたりの砂岩が中心で全体に赤っぽく見えます。

      このあたり一体は陶土に恵まれ、Pipe Astonはその名前の由来ともなった陶製のPipe生産で有名でした。私が写真を撮っている背後にはMotte-and-Baileyの城跡があります。夏で雑草に蔽われています。ノルマン期のものでしょう。

      北側の入り口ですが半円形壁面は見事なロマネスク様式です。Agnus Dei かPascha Lambの図案でしょう。中央の羊が十字架を抱えているのが確認できますでしょうか。
      2011/09/07


      St Peter's Church at Stanton Lacy


      西の壁面ですが縦に昔の教会の柱(1050年頃)の後が見えます。

      塔は13世紀でしょうが、修築前の古い教会の屋根が見えます(三角)。
      右手の北側のtranseptの壁はアングロサクソン期(1050年)頃のものです。


      アングロ・サクソン期の柱と埋めた北側のドア(1050年後頃の壁ですがドアは初期ロマネスクにも見えますが)が確認できると思います。

      三つ目はST Peter's Diddleburyです。名前からしますと、Dudelaというセインの居館にあたおそらくはチャペルに由来するものと思われます。この人物につての史料は残っていません。しかし、教会の北側の作りはノルマン様式(ロマネスク様式)以前のものです。壁は鰊の骨状構造(herring borne work)になっています。これ自体の時期についての論争がありここでは立ち寄りませんが、Eric Merer, English Architecture to 1900: Shropshire Experience (2003)はノルマン時代を、H, M, and J. Taylor, Anglo-saxon Architecture (1965)は征服前の時代を想定しています。同じ北側の外陣の壁に組紐模様のレリーフがあります。こうしたレリーフは主として征服前のものですので、私はとりあえずTaylorの意見に従います。塔はロマネスク様式で西側の入り口は後代に作り直されています。教会の建築時代を考える時には、1.塔、2.入り口、3柱の形状、4.窓の形状をまず確認しください。重く厚く丸い感じを受けたら、1200年以前、とがって華やかで軽い感じがしたら13世紀以降です。東側の窓が大きいと感じたら15世紀以降とまず考えてください。教会は常に改修をしていきますので、○○様式と断定するのは難しいですが、この四つの指標である程度は建築時期を想定できるでしょう。
      ちなみに、ここはサリーが結婚式をあげた教会だそうです。ウェールズは梁川さんが書いてくださるでしょうから私は時間をさらに巻き戻して、Gloucester, Deer Hurst, Reculver (Kent), Thanet-in-Minster (Kent)の話ししたいと思います。その前に次回はLudlowの話しをします。(続く)

       
      参考文献 David Lloyd, The Origins of Luflow,Logaston Press. Little Logaston Woonton Almeley, 2008; Peter Klein,  A Guide to St Peter's Churdch Stanton Lacy,  new enlarged edition (1989).   St. Peter's Church DiddleburySt. Peter's Church Diddlebury

      | kanadelib1 | 巡見 | 10:43 | - | - | - | - |
      Llangurig
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        naveLlangurigLlangurigのSt.Curig教会は、ワイ河沿いの丘に建つ。ちなみに、教会の献堂聖人名、立地とくに河沿いにあること、境内の形、などが、もともと初期教会であったことを示唆する指標とされる(clwyd-powys archaeological trust)。

        St.Curigは、6世紀にLlanbadarn fawrの司教となった人物とされ、マエルグン・グウィネッズ王の時代に教会(monasterium)をこの地に創建したと伝えられる。そのため、現在のLlangurig教会は、聖キリッグは「ケルト聖人」の一人であるが、ノルマン征服後に聖キリクスと同一視された、と主張している('Llangurig and its parish church')。聖キリクスとは、ディオクレティアヌス帝の迫害時にタルススで母聖ユリッタとともに殉教した幼児とされ、祝日は6月16日である。しかし、逆に、そもそも聖キリッグはキリスト教伝来時にローマ人が伝えた聖キリクスのウェールズ語読みである可能性はないのだろうか?聖キリッグへの献堂はウェールズではそれほど多くなく、ポウィスのLlangurigのほかにはグウィネッズのCapel Curig(church of St.Julitta)が有名な程度である。いずれにせよ、征服後に、Llangurigの所領の一部は新たに創建されたシトー会のCwmhir Abbey(1143創建)に、教会そのものはStrata Florida Abbey(1164創建)に与えられてしまった。

        現在の教会堂は、おおむね19世紀の再建であるが、塔は14世紀半ばから15世紀頃のものが保存されている。15世紀のあいだには北側の側廊とルード・スクリーンが追加され、内陣も東の壁を壊して新たに拡大された。この改築の名残は、現在も北側の壁と内陣のパーペンディキュラー窓などにみられる。現在のルード・スクリーンは、中世のものをコピーした19世紀の作品である。

        Clywd-Powys Archaeological Trust
        http://www.cpat.demon.co.uk/projects/longer/churches/idxall.htm

        RWD Fenn, Llangurig & its parish church.


        (梁川洋子)



        | kanadelib1 | 巡見 | 06:37 | - | - | - | - |
        Llanbadarn Fawr
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          stone crossstone crossRhygyfarchのPsalter  Llanbadarn のllanはenclosure(英)の意で、転じて聖域や教会を指す。聖パダルンは、6世紀の聖人とされ、聖デイヴィッドや聖テイロとならぶ南西ウェールズ3大聖人の一人である。この3名はともにエルサレムで総主教ヨハネス3世より洗礼を受け、そこで聖パダルンは司牧杖を賜ったとされる[Catholic Encyclopedia on St.Teilo]。
           現在のLlanbadarn Fawrの教会堂の聖パダルン・コーナーには、1120年頃にLlanbadarnで成立したとされる『聖パダルン伝』から選ばれたエピソードがステンドグラスと陶板に描かれている。とくに、陶板には、マエルグイン・グウィネッズに盗みを咎められた聖パダルンが熱湯神判によって身の潔白を証明し、逆に王の召使らの罪が明るみに出た、という場面が浮き彫りにされている。ただし、DNBの記事によると、『聖パダルン伝』(現在はBL.Cotton MS.Vespasian Axiv.)は、不詳のウェールズの聖人伝と5世紀のヴァンヌ司教パテルヌス伝(当時すでに6世紀のアヴランシュ司教パテルヌスの伝と混交したもの)とを適当に組み合わせて編集されたものとされる[DNB online on St.Padarn]。
           とはいえ、少なくとも11世紀末から12世紀前半にかけて、Llanbadarnは、周辺地域のキリスト教信仰の中心としてだけでなく知的センターとしても活発に活動していた。とりわけ、11世紀後半に2度セント・デイヴィッズ司教を務めたSulien(d.1091)の息子たちは、文筆家として著名である。シリエン司教の一族は、Llanbadarnの初期教会(clas church)を構成するclaswyrに属し、シリエンの息子Ieuanは、スコットランドで5年、アイルランドで10年勉学に励み、2度にわたってセント・デイヴィッズ司教となった父の生涯とLlanbadarn教会を称える詩をラテン語とウェールズ語で書き、もう一人の息子Rhygayfarchは『聖デイヴィッド伝』を著した。Rhygyfarchの『聖デイヴィッド伝』は、3つの写本が伝来しており、そのうちの1つであるダブリン大学トリニティ・カレッジ所蔵の詩篇書は、現在、写本の1ページ目の複製拡大版が教会堂に飾られている。ほかの写本は、ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジとBLが所蔵。
           ほかに、ノルマン征服以前のLlanbadarn初期教会の活動を示すものは、現在では2本の石十字架だけである。かつては境内に立っていたが1916年に教会堂内に移された。10フィートもの高さの細長い十字架のほうは、おそらくLlyn半島産の花崗岩製で、ウェールズでは珍しく人物像が刻まれており、いわゆるケルト的なレース模様の浮き彫りで飾られている。おそらく10世紀頃のものとされる。ずんぐりした小さいほうの十字架は、9世紀から11世紀のものとされる。

          出典:Llanbadarn Fawr Drwy'r Canrifoedd 

          (梁川洋子)
          | kanadelib1 | 巡見 | 05:35 | - | - | - | - |
          St Padarn's Church, Llanbadarn Fawr
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            St Llangurigに続いてSt Padarn's Church, Llanbadarn Fawrについてお話ししましょう。この教会はSt Padarnによって6世紀に建立されました。この聖人は、St David, St Teiloと同時代人ですが、その「生涯」や「系図」も後代のもので、彼についてはよく分かっていないというのが実情です。おそらくは現在のウェールズの南東部から一族と共にこの地に移ってきたものでしょう。Llanbadarn Fawrは現在Aberystwyrthの近郊にある比較的大きな集落です。Clas教会などの母教会の立地条件として、海上・河川交通の要衝の地であるという地理的条件を考える必要があります。本来大教会は一大消費センターですから、物資の継続的な搬入や情報交換は死活問題になります。ここにはRheidol川が流れ、すぐ海にでることができました。12世紀までは観想司牧共同体が機能しウェールズ的な意味での司教が置かれていました。13世紀に再編されますが、その縄張りからは17の小教区と20の教会が生まれたといわれています。私たちが訪問した日は、お祭りの真っ最中で、駐車した道が後に閉鎖されて出るのに少しだけ苦労しました。地元のおじさんに誘導してもらいました。


            西南の入り口から。基本的にはゴッシク様式ですが一部にロマネスクが見られます。



            外陣から内陣をみたもの。Walesの教会としてはかなり大きな部類に入ります。


            Clas教会は、貴顕たちの子弟の教育の場所でもあり、埋葬の廟の役割も果たしました。イングランドの初期minsterも同じ機能を持っていたと思われます。膨大な寄進は言わば保険でした。ノルマン征服の時点で、Llanbadarnは'Claswyr'と呼ばれた世襲制のcanonたちの共同体のもとにありました。その帳はabbotと呼ばれました(ベネディクト会系列以外の施設に修道院とか修道院長、修道士という言葉を使うのは誤解を招く恐れがあります)。
             

            1188年の春、カンタベリー大司教BaldwinとBreconの大助祭でかの有名なGerald of Walesが、第三次十字軍のため、説教にこの地を訪れています。彼はこう書いています。「Llanbadarn Fawrの教会は惨めな状態になっていた。Ednywain ap Cweithfoedという名の邪な老人がAbbotの職を手中にして、その息子たちが祭壇を守っていた」と。

            教会は1136年に再編されますが、それでも当時の最先端の教会人には古くさいものに見えたことでしょう。Llanbadarn Fawrの持っていた「修道院」的機能は、1197年までには、シトー会系のStrata Florida修道院に移されました。Llanbadarn FawrのClas教会としての歴史はここに幕を閉じ、小教会として出発するわけです。
            参考文献 Llanbadarn Fawr through centuries, 1994.
            (鶴島博和)

            | kanadelib1 | 巡見 | 12:58 | - | - | - | - |
            2011夏の巡検追加記事
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               追加情報です。

              8月14日 St.Dogmaels → St.Davids → St.Non's chapel → St.Ishmaels → Rhoscrowther (St.Decuman's church) → St.Canna's Chair → Cardigan

              8月15日 Cardigan→ Llantwit Major(St.Illtud's church)→Llancarfan(St.Cadog's church)→Cardiff

              (梁川)
              | kanadelib1 | 巡見 | 01:49 | - | - | - | - |
              2011年ブリテン史研究会巡見
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                 今年度の巡見は、ブリテン島における初期教会のモデルを比較検討することを目的として、ローマ教会化が一番早かったケントと、ローマ帝国以来のブリトン人の教会伝統を残したウェールズを巡見対象とした。参加者は、団長の常見信代以下、森下園、梁川洋子、鶴島博和

                基本的な日程
                8月8日1800ヒースロー空港第3ターミナル集合。車でMargate。Glenwood Hotel宿泊。
                8月9日 Minster-in-Thanetの教会領域 (7世紀)
                8月10日 Reculverの教会領域 (7世紀)
                8月11日 KentからGloucesterへ。A28-A2-M2-A249-M20-M25-M4-M5でDeerhurst
                Priory church of St. Mary (AD. 800)Od's Chapel AD. 1056   Ibis Gloucester宿泊
                8月12日 Gloucester Cathedral-->Ludlow. Lord Leslie Fielding& Lady Sally Fielding(Harvey)の自宅でTea Time--> St Peter's Stanton Lacy, St Peter's Diddlebury.
                いずれもAnglo-Saxon時代の建設部分を残す。Feathers Hotel Ludlow宿泊
                8月13日 Llandrindod Wells --->Llagurig (clas church)
                Llagurigの教会です。車からたまたま見て立ち寄りました。塔はロマネスク。手前の内陣は14世紀から15世紀の初期のものでしょう。しかし起源は古く、6世紀にさかのぼるという伝承があります。St Curingはブリトン人の聖人です。Maelgwyn Gwyneddの時代にこの地に、所謂修道院あるいはminster(古英語で修道院の意味です)と呼ばれる中心的な教会施設を建てました。LlangurigはA470とA44が交差する、Wye川上流の渓谷にあります。Clas教会とは、観想と司牧混然とした共同体で、かなり広い地域を縄張りとする教会施設です。地域の「王」族、貴顕の一族(kindred)の支配下にあり、母教会と考えてもよいものです。母教会とは、11/12世紀に村や都市を単位とした小教区教会(parish church)の多くが母教会の解体から誕生した経緯から命名したものです。教会敷地がきわめて広く、建物の一部にロマネスクあるいはそれ以前の様式が一部でも見られれば母教会と疑って訪問してみてください。 

                Clas教会は、イングランドではminster教会、アイルランドでは修道院教会といい変えてもよいでしょう。これらの違いは、ethnicityの問題ではなく、権力構造と家構造の差異であって、教会組織上からは方言といってもよいものです。

                ---> Llanbadarn Fawr ---> Cardigan                                                         Highbury Hotel Llety Teifi 宿泊
                8月14日 St Dogmales Abbey--->St David's  ----> St Non's Chapel ---> St Ismael's Chaple ---> Rhoscrowther (St Dagmaer) ---> Cardigan
                8月15日
                Cardigan ----> Cardiff  解散      Skyplaza Hotel宿泊
                8月16日 Londonへ
                (鶴島博和)
                | kanadelib1 | 巡見 | 00:31 | - | - | - | - |
                2010.08.06 Monday
                0
                   

                  20108月 中世ブリテン史研究会巡見

                  研究会として最初の巡見は、中世初期にブリテン島のキリスト教化に多大な影響を与えたアイオナとノーサンブリアとの関係の検討を目的として、ニューキャーッスル以北の主要な教会跡を対象とした。

                  参加者;常見信代、鶴島博和 梁川洋子、田付秋子  (以下は常見の報告)

                   

                  815日 Newcastle upon Tyne空港集合(いろいろありました…) Newcastle

                  816日 HexhamJarrow & Monkwearmouth    Newcastle

                  1) Hexham Abbey   
                   ヨーク司教ウィルフリッド(
                  Wilfrid633年頃―709年)が聖アンドレに奉献した修道院教会 に始まる。今日、われわれが見る教会は1170-1250年頃に建造されたノルマン様式である。ウィルフリッド当時の建造物は地下のSaxon cryptのみ(午前と午後に1時間公開)。写真2はその入り口の半円アーチで、ローマの百人隊長が「マポヌス・アポロ神」(ブリトンの神とローマの神の習合)に奉献した石碑を再利用したもの。
                  投稿日2011年9月5日 常見信代

                  以下追加(鶴島博和)2011年9月5日

                  南側のGatehouse(南がわ)から教会を望む。

                  Gatehouse自体は1400年頃のHexhmashsireを統括していたヨーク大司教の代官の家を守るために建設されました。
                  この部分は基本的には15世紀のゴシックです。いうまでもないことですが、教会建築は何百年もの間改修が行われていきますので、様々な用意式の複合体です。









                  南側門ですが12世紀ゴシックの半円形のアーチの部分です。その上の三角はそれに先行する可能性があります。右手の窓は、丈夫の先端のとがったゴシック(13世紀のものでしょうか)です。丸と三角のとがったアーチはロマネスクかゴシックかを見極める指標ですが、くれぐれも19世紀の新ゴシックにだまされないように。素材を見ればわかります。


                  クリプト
                  どの教会もクリプト(地下)が一番古い部分ですから、かならずクリプトは見学しましょう。

                  | kanadelib1 | 巡見 | 01:08 | - | - | - | - |
                  カエルウェントの聖タタン オックスフォード ブリテン諸島史第1巻の訳注です。
                  0

                    カエルウェントの聖タタン、もしくは英語で聖アサンは、5世紀から6世紀初めにかけて南ウェールズのグウェントで活動したゲール系あるいはブリトン系の聖職者。12世紀の聖人伝によると、彼はアイルランドの王、タタリウスの子で、この世の王国に見切りをつけ天上の国を求めて、八人の弟子とともにウェールズにやってきた。グウェントに上陸し、その地の王であるカラドックの親交をえるべく王国の中心地であるカエルウェント(グウェントの砦:モンマス州)を訪ねた。そこでその子アニルの知遇をえて土地を与えられ。そこに王の依頼もあって学校と三位一体に奉献した教会を建てた。「けして怒ることはなく、与えられたものはなんでも他者に分け与えた。西方で彼ほど客人を手厚くもてなしたものはいない」と聖人伝は伝える。数々の奇跡を行ったあとなくなり、教会の床下に埋葬されたという。しかし別の史料は異なった伝承を伝えている。彼は、ウェールズの南西部の黒のアムンとグラモーガンとグウェントの王テウドリクの子メウリク(ラテン名マウリティウス)の娘グウェントのアンとの間に生まれ、ブルターニュから最初グラモーガンに上陸し、サンダタンあるいはセント・アサンに教会を建立した。その後カエルウェントによばれ、グウェントのアニルの庇護を受けて修道院(共住聖職者教会)を治めた。彼はアニルの聴罪師であった。その後サンダタンに戻りそこで亡くなった。ただしモンマス州のサンヴァッヘスもセント・アサンとよばれており同定は難しい。残存する系図では、彼はドルのサムソンの兄弟といわれるが、ハダンとスタッブズはタタンの方がかなり年長でありその可能性を否定している。ウェールズの聖カドックはタタンの弟子といわれる。聖カドックの伝承は主としてブルターニュに残っている。聖タタンから見えるものは、アイルランド、ウェールズ、そしてブルターニュ(コーンウォール)も含めて、ローマ教皇がその裁治権を伸ばしてくる一世紀前、ブリテン島の西部にはローマ帝国が残したキリスト教の伝統が残りひとつの政治的・宗教的交流圏を形成していた事実である。そしてこの教会影響圏の中心にあったのがローマの定住地でもあったカエルウェントであった。ローマ時代の遺構のそばに聖スティーブンと聖タタンに奉献された現在の教区教会が立っている。



                    (鶴島博和)

                    A. W. Haddan and W. Stubbs, Councils and Ecclesiastical Documents 3vols, i. (Oxford, 1868; 1964), 144: S. D. G. Stephensa, ‘St Cadoc and the healing of the deaf’, The Journal of Laryngology & Otology 104 (1990), 1-3: Vita Sancti Tathei and Buched Seint y Katrin, re-edited, after Rees, from the MSS. in the British Museum, by H. Idris Bell, Thomas Roberts, and Ifor Williams [With an English translation of St. Tathan’s life.], 1909: William Smith and Henry Wace、A Dictionary of Christian Biography, Literature, Sects and Doctrines. Volume IV N-Z, Elibron Classics (2005)

                    | kanadelib1 | 歴史の広場 | 14:23 | - | - | - | - |
                    森下さんの論文です
                    0

                      森下園「中世初期イングランドの司牧をめぐる考察
                      ―イースト・アングリアのケース」Sophia Junior College Faculty Journal
                      Vol. 30, 2010, 111-119
                      奏文庫のウェッブサイト、トップページで開けます。
                      鶴島

                      | kanadelib1 | 歴史の広場 | 10:23 | - | - | - | - |
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